仲裁判断 

仲 裁 判 断
日本スポーツ仲裁機構
JSAA-DP-2008-001
仲裁判断
申立人:X
被申立人:財団法人日本アンチ・ドーピング機構
被申立人代理人:弁護士 辻居 幸一
弁護士 水沼 淳
弁護士 奥村 直樹
A
B

主 文
本件スポーツ仲裁パネルは、次のとおり判断する。
1 申立人の請求を棄却する。
2 申立料金5万円は申立人の負担とする。
理 由
第1 当事者の求めた仲裁判断
申立人は、次のとおりの仲裁判断を求める申立てをした(申立人の請求)。
  • 1 申立人の求めた仲裁判断
    日本ドーピング防止規律パネルが2008-004事件について2008年10月29日にした決定を取り消す。
  • 2 被申立人の求めた仲裁判断
    主文と同旨
第2 手続の経過
  • 1 日本ドーピング防止規律パネルは、2008-004事件について、2008年10月29日、同日付けの聴聞パネルの決定に基づき、日本ドーピング防止規律パネル決定(以下「原決定」という。)をした。原決定の内容は、別紙「日本ドーピング防止規律パネル決定」のとおりであり、そのうち、競技者氏名、競技種目、決定(主文)は次のとおりである。
  • 競技者氏名 X(本件仲裁申立人)
    競技種目 自転車競技
    決定
  • ・日本ドーピング防止規程(以下「本規程」という。)2.1条の違反が認められる。
  • ・本規程10.1.1条に従い、競技大会(第64回全日本大学対抗選手権自転車競技大会)の各競技結果はいずれも失効する。
  • ・本規程10.3条及び本規程10.8.1条に従い、本決定の日から1年間の資格停止とする。
  • 2 申立人は、2008年11月12日、日本スポーツ仲裁機構(以下「仲裁機構」という。)に、被申立人を相手方として、本規程13.2.2条に基づいて、原決定の取消しを求めて本件仲裁申立てをし、仲裁機構は、同日これを受理した(本件JSAA-DP-2008-001号ドーピング仲裁事案)。
    なお、仲裁機構「ドーピング紛争に関するスポーツ仲裁規則」(以下「本規則」という。)4条により、本規程に基づく不服申立てについては、本規則に基づく仲裁に必要な仲裁合意が存在しているものとみなされる。
  • 3 その後、申立人は仲裁人として山本隆司を、被申立人は仲裁人として濵本正太郎をそれぞれ選定し、その両仲裁人は就任を承諾した上、第三の仲裁人として笠井正俊を選定し、同仲裁人は就任を承諾した。これによって、2008年12月3日、本スポーツ仲裁パネルが構成された。
  • 4 ところで、被申立人は、本件事案について、2008年11月25日付け答弁書を提出し、仲裁機構は、同日、この答弁書を受領した。この答弁書の「第1 請求の趣旨に対する答弁」の項には、次の記載がされていた。
    「(主位的答弁)
    1 日本ドーピング防止規律パネルが2008-004号事件について平成20年10月29日になした決定のうち、「本規程10.3条及び本規程10.8.1条に従い、本決定の日から1年間の資格停止とする。」との部分を取り消す。
    2 日本ドーピング防止規程10.2条に従い、申立人を平成20年10月29日から2年間の資格停止とする。
    3 仲裁費用は申立人の負担とする。
    との仲裁を求める。
    (予備的答弁)
    1 申立人の請求を棄却する
    2 仲裁費用は申立人の負担とする
    との仲裁を求める。」
  • 5 本スポーツ仲裁パネルは、この答弁書に記載された「主位的答弁」について、原決定に対する被申立人の不服申立てであるから、被申立人による申立人を相手方とする本規程13.2.2条に基づく仲裁機構への仲裁申立てに当たると認識し、被申立人は申立料金5万円を支払わなければならないこと、2008年12月17日までにその支払をしない場合には、被申立人の「主位的答弁」に係る仲裁申立てはされなかったものとみなすこと、「主位的答弁」の記載された答弁書は原決定から14日を経過した後に仲裁機構に到達したから、本規則15条ただし書に定める特別の事情がある場合を除いて仲裁事案の対象とはならないこと、被申立人が特別の事情に関する主張をしようとする場合には書面により2008年12月17日までに提出するよう求めることを内容とする決定を2008年12月10日にした。被申立人は、同月11日、この決定に従い、申立料金5万円を仲裁機構に納付した。
  • 6 仲裁機構は、被申立人がこの答弁書に記載した「主位的答弁」をもって同月11日に新たな仲裁申立てをしたものと取り扱い、これを同月12日に受理し、この申立てに係る事案を、以後「JSAA-DP-2008-002号仲裁事案」と称することとした(以下「002号事案」という。)。仲裁機構は、2008年12月12日、本規則42条1項に基づき本件事案(JSAA-DP-2008-001号事案を意味する。以下「本件001号事案」ともいう。)と002号事案とを一つの手続に併合することを決定し、その結果、本規則42条2項、41条3項により、本件001号事案についての本スポーツ仲裁パネルが002号事案についてもスポーツ仲裁パネルとして事件を担当することとなった。
    002号事案において、同事案の申立人(本件001号事案被申立人)は、本件001号事案申立人から検出されたサルブタモールは、「ベネトリン」の服用によるものであるから、世界ドーピング機構(WADA)の世界ドーピング防止規程(以下「WADA規程」という。)2008年禁止表国際基準(以下「2008年禁止表」という。)の「IV. 特定物質」には当たらず、本件001号事案申立人については、本規程10.2条に基づき、2年間の資格停止とすべきであると主張した。
    002号事案については、同事案の申立人(本件001号事案被申立人)による準備書面の提出、本スポーツ仲裁パネルによる審理終結の予告等を経て、2009年1月23日、審問期日外に、002号事案の手続を本件001号事案の手続と分離した上、本規則46条1項に基づき、002号事案の審理の終結を決定した。そして、本スポーツ仲裁パネルは、002号事案について、同月26日、主文を「本件申立てを却下する。申立料金5万円は申立人の負担とする。」とする仲裁判断をした(この主文の「申立人」は本件001号事案の被申立人を意味し、「申立て」は上記のとおり取り扱われた本件被申立人の答弁書における「主位的答弁」に係る申立てを意味する。)。申立てを却下した理由は、002号事案の申立てが、本規程及び本規則の定める申立期間の満了後にされたものであって、本規程及び本規則の定める申立ての要件を満たさないことである。
  • 7 このように、本件001号事案被申立人の当該「主位的答弁」における申立て及び主張(「申立人から検出されたサルブタモールが「ベネトリン」の服用によるものであるから、2008年禁止表の「IV. 特定物質」には当たらず、被申立人については、本規程10.2条に基づき、2年間の資格停止とすべきである」との申立て及び主張)については、002号事案において申立てを却下する仲裁判断が既に示されているので、本件001号事案における審理及び判断(本仲裁判断)の対象とならない。本仲裁判断において判断の対象となる当事者の申立ては、前記第1のとおりである。
  • 8 本スポーツ仲裁パネルは、2008年12月10日、申立人に、同月24日までに、原決定に対する言い分を具体的に述べるなどして主張を補充し、主張に応じてその裏付けとなる証拠を提出するよう求める決定をし、両当事者に通知した(スポーツ仲裁パネル決定(2))。申立人は、同月20日付け「スポーツ仲裁パネル御中」とする書面及び「サルタノール・インヘラー」の取扱説明書を提出し、仲裁機構はこれらを同月24日に受領した。本スポーツ仲裁パネルは、同月25日、申立人に必要があれば証拠提出を、被申立人に主張を、いずれも2009年1月14日までにするよう求める決定をし、両当事者に通知した(スポーツ仲裁パネル決定(4))。被申立人は、申立人の主張に対して反論する主張を記載した同月7日付け準備書面を提出した。
  • 9 本件の審問期日の指定については、本規則48条1項後段が、仲裁判断は原則として原決定の日から3か月以内にするものとする旨定めていることをも考慮し、本スポーツ仲裁パネルの構成直後から日程調整が行われ、本スポーツ仲裁パネルは、事前準備に必要な期間と仲裁人の都合に基づいて2009年1月24日又は25日の期日開催を2008年12月10日に両当事者に打診したが、両当事者ともに差支えがあった。そこで、2009年1月31日又は2月1日の期日開催を2008年12月15日に打診したところ、被申立人代理人は2月1日の出席が可能であったが、申立人が職務のため両日とも出席不可能であった。次いで、2009年2月4日、21日、22日、24日、25日、3月1日、4日又は8日の期日開催を2008年12月22日に打診したところ、被申立人代理人はこれらのうち2月21日、22日、24日、3月1日は出席可能であったが、申立人からは、いずれの日も差支えがあり、3月までは平日・週末ともに勤務が続くため、審問期日に出席する時間を確保することができない旨の回答が2009年1月5日にあった(なお、その回答期限は2008年12月25日であった。)。そこで、本スポーツ仲裁パネルは、2009年1月13日、両当事者に対して、是非同年4月には審問期日を設定したい旨を連絡するとともに、申立人に対し、4月に出席可能な日を至急回答するよう照会したところ、申立人は、4月18日、19日、25日、26日であれば出席可能である旨、同年1月14日に回答した。そこで、本スポーツ仲裁パネルは、それらのうち、被申立人代理人及び仲裁人の出席が可能な日のうち最も早い4月19日に審問期日を開くこととし、その旨を仲裁機構事務局を通じて1月20日に両当事者に事実上連絡した上、仲裁機構事務局による開催場所の確保等を経て、4月19日に審問期日を開催する旨のスポーツ仲裁パネル決定(7)を1月26日にして、両当事者に告知した。
    その後、同年4月13日に、申立人から、仲裁機構事務局宛に、郵便で、申立人がアメリカ合衆国の大学で研究員として勤務することとなって過日着任し、同国での生活を開始したので、「誠に勝手ながら米国就労ビザの関係上、当面帰国ができないため審問等にも応じられず、ご迷惑をお掛け致しますことを心よりお詫び申し上げます。」(括弧内は原文どおり)との書簡が、当該大学が発行した関係書類のコピーとともに届けられた。この書簡に、審問期日の変更や次回審問期日の指定を求める趣旨の記載はなかった。この書簡の差出人欄には申立人の住所として米国の当該大学名とその所在地が記載されており、当該大学が発行した書類には受入れ教授の氏名が記載されていた。
  • 10 2009月4月19日、東京都港区内において、被申立人代理人辻居幸一、同奥村直樹及び同B出席の下で、審問が行われた。申立人は、審問期日に欠席したが、本スポーツ仲裁パネルは、その欠席には合理的な理由がないと判断し、本規則39条1項本文により、申立人欠席のまま、審問を開くこととした。
    申立人の欠席に合理的な理由がないことの理由は、次のとおりである。欠席の直接の理由は米国での勤務であるが、申立人が審問期日での主張・立証の機会の確保を真剣に望むのであれば、渡米前に期日の再調整を試みるなどの姿勢を示すべきであったと考えられるのに、そのような姿勢が示されていない。また、申立人が渡米後に郵送した上記9の書簡にも期日の変更や次回審問期日の指定を求める記載がない。さらに、上記9のような期日指定に至る経緯(とりわけ、1月から3月までの間に審問が開催できなかったことの原因のかなりの部分を申立人の都合が占めており、4月19日の期日は申立人の都合を十分に考慮した上で指定されたものであること)にかんがみると、申立人の米国勤務を理由に審問を開かないことは仲裁手続の在り方として不相当であると考えられる。以上のことから、本スポーツ仲裁パネルは、予定どおり、4月19日に審問期日を開くこととしたものである。
    同日の審問においては、被申立人が、あらかじめ提出していた書面のとおり、その主張と証拠を提出した。また、本スポーツ仲裁パネルは、申立人があらかじめ提出していた書面に記載した内容の主張と立証をしているものと取り扱った(本規則39条2項は、当事者の一方が合理的な理由なく欠席した場合には、出席した当事者の主張と立証に基づいて審理を進めることができる旨定めるが、スポーツ仲裁パネルがあらかじめ当事者が提出した書面を判断の資料とするために、そこに記載された主張と立証をしたものと取り扱うことが妨げられるものではないと解する。なお、本件でのこのような取扱いについては、被申立人の同意がある。)。
  • 11 本スポーツ仲裁パネルは、当該審問期日において、被申立人に対して、2008年8月31日に長野県大町市で開催された第64回全日本大学対抗選手権自転車競技会大会(以下「本件大会」という。)の申立人が出場した競技のスタート時刻、優勝者のフィニッシュ時刻、検体採取に出頭要請される競技者のリストを掲示した時刻及び場所についての主張と証拠を、2009年5月1日までに提出するよう求めた。
  • 12 本スポーツ仲裁パネルは、2009年4月22日、スポーツ仲裁パネル決定(8)により、申立人に対し、米国内の住所(申立人が郵便物を確実に受領できる場所であることを要する。)を2009年4月27日(日本時間)までに、仲裁機構事務局宛に知らせること、同決定を送付する宛先の電子メールアドレスよりも便利なアドレスがあれば、それをも知らせることを求めるとともに、2009年4月19日の審問手続の概要を、両当事者に(被申立人には確認のため)告知し、申立人に前記11の事項に関連する主張があれば書面に記載して提出するよう求めた。仲裁機構は、同月22日、この決定を、両当事者に電子メール(申立人のアドレスは、渡米前に申立人が届けていたもので、一般的に米国でも送受信可能なプロバイダのアドレスである。以下、申立人への電子メール送信について同じである。)で送信し、また、同月24日、申立人に対し、この決定を申立人宛の封筒に封入した上、前記9のように同月13日に申立人から郵送された書類に記載されていた米国の大学の受入れ教授宛に、申立人に手渡してほしい旨の英文依頼状を添えて国際速達郵便(EMS)により郵送した(郵便事業株式会社のEMS個別番号検索によると、現地時間同月28日に配達された旨の記録がある。以下、配達記録については同じ検索による。)。
  • 13 被申立人は、11記載の事項に関する2009年4月30日付け準備書面を書証(乙第20号証から23号証まで)とともに同年5月1日に提出した。仲裁機構は、同月7日、これらの書面を電子メールで被申立人に送信した。
  • 14 本スポーツ仲裁パネルは、2009年5月19日、スポーツ仲裁パネル決定(9)により、申立人に対して、前記13の被申立人準備書面と証拠に対する主張と証拠申出があれば、書面に記載した上、文書ファイルを電子メールで送信するか書面を郵送するかのいずれかの方法によって同月27日(日本時間)までに仲裁機構事務局に到達するように、提出することを求めるとともに、両当事者に対し、本件の審理を5月29日に終結する予定であるが、申立人が主張と証拠申出を提出した場合に、本スポーツ仲裁パネルが更に審理を続行すべきであると判断して終結予定日を変更したときは、この限りでないとして審理終結の予告をした。この決定では、そのほかに、本件の審理を5月29日に終結した場合、6月10日までに仲裁判断をする予定であることを告知し、また、申立人に対して、アメリカ合衆国内の住所を同年5月22日(日本時間)までに、仲裁機構事務局宛に知らせるよう再度求めた。仲裁機構は、同年5月19日、この決定を両当事者に電子メールで送信し、また、同日、申立人に対し、前記13のとおり被申立人が提出した書類とこの決定を、前記12と同じ方法により国際速達郵便(EMS)により郵送した(現地時間同月21日に配達された旨の記録がある。)。
  • 15 その後、申立人からは連絡がなく、結局、前記9の書簡が届けられた後、申立人からは一切連絡がなかった(なお、頭書の申立人の住所は、仲裁機構及び本スポーツ仲裁パネルが確認できた限りでの、日本国内での最後の住所である。)。
  • 16 本スポーツ仲裁パネルは、2009年5月29日、手続が仲裁判断に熟すると認め、規則46条1項に基づき、審問期日外に、スポーツ仲裁パネル決定(10)をもって、本件の審理を終結すること、及び、同年6月10日に仲裁判断をすることを決定した。仲裁機構は、この決定を、同年5月29日、両当事者に電子メールで送信するとともに、同年6月2日、申立人宛に前記12と同じ方法により国際速達郵便(EMS)で郵送した(現地時間同月4日に配達された旨の記録がある。)。
第3 事案の概要
本件は、第2・1掲記の原決定に対して、申立人が、本規程13.2.2条及び本規則15条、16条に基づいて、第2・2のように仲裁申立てをした事案である。

  • 1 原決定の要旨
    原決定は、2008年8月31日に長野県大町市で開催された本件大会当日のドーピング検査において競技者(申立人)から検出された物質サルブタモールが、2008年禁止表における「S3. ベータ2作用薬」であり、本規程2.1条に定める「禁止物質」に該当し、略式の治療目的使用に係る除外措置(TUE)の取得はされていないので、競技者(申立人)について本規程2.1条の違反が認められるとしつつ、その検出量は1000ng/ml未満であり、吸入使用による1000ng/ml未満のサルブタモールの検出であれば2008年禁止表における「IV. 特定物質」に当たるとした上で、サルブタモール吸入薬に起因する旨の申立人の主張を挙げるなどして、本規程10.3条(競技力の向上を目的としない特定物質の使用の場合の資格停止期間)を適用して、1回目の違反として、申立人につき、決定の日から1年間の資格停止としたものである。
  • 2 当事者間に争いのない事実
    申立人は、本件大会に競技者として出場した。
  • 3 申立人の主張
    申立人は、本件大会において競技に参加したが、予選のスタート後15分程度で途中棄権し、その後、発作を止めるため、サルブタモール吸入薬である「サルタノール・インヘラー」の吸入治療を受けた。
    申立人は、棄権直後にはドーピング検査の対象となっておらず、そのため、当該吸入治療を受けたものであり、その後数時間後に検査対象の発表があった。もし検査を行うのであれば、棄権直後に検査対象となることを競技者に告知し、治療前に検査をすべきである。
    そして、競技終了後の治療に対してドーピング判定を適用することは、ドーピング検査の意味合いからずれている。
    また、治療薬に対するドーピング判定というような措置をとるのであれば、事前にそのような規定があることを示すべきであるのに、そのような情報は、少なくとも申立人の属する日本学生自転車競技連盟からはどの競技者に対しても伝えられていない。同連盟では、アンチ・ドーピングに関する研修会はどの競技者に対しても実施されていない。よって、競技者がドーピングに関する規定(医療目的で使用している治療薬に関する規定を含む。)を知らされることもなかった。知らされていないことで責められるのは理不尽である。
    さらに、原決定に至る聴聞パネルでの手続では、申立人は、聴聞パネルから資料の請求があったため、求めに応じ、治療薬が医療目的であることを示す医師の診断書を複数回提出したにもかかわらず、それらが決定において全く考慮されていないことは、審理手続として適切でない。
  • 4 被申立人の主張
  • (1)本規程の適用について
    財団法人日本自転車競技連盟は、本規程を受諾し、本規程は、同連盟の登録競技者の権利及び義務の一部となる(本規程1.1.1条)。同連盟も、被申立人に対し、本規程を承認し、本規程に準拠したアンチ・ドーピング規則を設け、同連盟に所属する競技者等のすべての関係者にこれを適用する旨の誓約書を提出している。同連盟の競技規則99条には、本規程と同様の規定が置かれている(本規程10.2条に相当する規定として日本自転車競技連盟競技規則99条15項(6)、本規程10.3条に相当する規定として同競技規則99条15項(7)がある)。
    申立人は、日本学生自転車競技連盟に所属しており、日本学生自転車競技連盟の憲章副則9条によれば、申立人は日本自転車競技連盟の登録競技者であるので、申立人に本規程が適用される。
  • (2)ドーピング検査の事前周知について
    本件大会の監督会議においては、ドーピング検査について周知する文書が事前に配布され、選手に対しても監督を通じてドーピング検査について周知徹底されている。また、監督会議においては、参加選手が競技のスタート72時間以内に摂取した医薬品のリストが配布され、申立人の所属するチームからも、医師の確認を経て、医薬品の使用についての報告がされている。
    さらに、日本学生自転車競技連盟の上部組織である財団法人日本自動車競技連盟のホームページには、「アンチ・ドーピング」のページが設けられており、禁止物質及び禁止方法のリストについても同ホームページにおいて明示されている。
    そして、本規程2.1.1条は、「ドーピング防止規則に対する違反を証明するためには、競技者側に使用に関しての意図、過誤、過失又は使用を知っていたことがあったことが示される必要はない。」と定めている。
  • (3)ドーピング検査の時期に関する申立人の主張について
    本件大会当日のドーピング検査は、競技全体の終了後に行われたものである。自転車競技大会においては、予選参加者も含めて、ドーピング検査の対象となり得るので、上位に進出することができなかった競技者についても、ドーピング検査が行われるまでの間、現場で待機しなければならないものとされており、申立人は予選段階で棄権したため、実際の検査までの間に時間的な間隔があったにすぎない。
    申立人が競技者として参加した本件大会男子個人ロードレースにおいては、ドーピング検査対象リストは、優勝者のフィニッシュ時刻の20分程度前に検査室入口壁面及びリザルト掲示板に掲示された。
    日本自転車競技連盟競技規則99条10項(12)は、検査対象リストの掲示に際しての手続上の細則を定めたものに過ぎない。また、日本自転車競技連盟競技規則99条「9. 競技外検査」の規定によれば、「(1)競技者は競技外検査に服さなければならない」とされ、競技者には競技外検査に応じる義務も存在する。さらに、申立人に対しては現実の通知がなされている。したがって、優勝者がフィニッシュする前に検査対象リストの掲示がされたか否かは、申立人によるドーピング防止規則違反の成立に影響するものでない。
  • (4)吸入治療についての申立人の主張について
    申立人が主張する、申立人が本件大会当日に吸入薬「サルタノール・インヘラー」の治療を受けたという事実は、否認する。
    しかし、仮に、申立人の主張するように申立人の検体からサルブタモールが検出されたのが「サルタノール・インヘラー」の吸入使用によるものであったとしても、申立人にはドーピング防止規則に対する違反が成立する。申立人が使用したと主張する「サルタノール・インヘラー」は、ベータ2作用薬として、吸入使用の場合、略式TUE申請がない限り、競技会、競技会外を問わず、常に禁止される(2008年禁止表国際基準Ⅰ.S3)。申立人は、略式TUE申請を伴わずに、「サルタノール・インヘラー」を吸入使用したと主張しており、このことは、とりもなおさず、ドーピング防止規則に対する違反となる(本規程2.2.1条)。
    なお、使用禁止表に掲げられる禁止物質に関する世界ドーピング機構(WADA)の決定は最終的であり、申立人が異議を述べる余地はない(本規程4.3条)。
第4 判断の理由
  • 1 本規程の適用
     本件は、上記第3のとおり、本件大会当日のドーピング検査に関するものである。本件各証拠及び当事者の主張の趣旨によれば、本件大会は日本学生自転車競技連盟が主催しており(乙第13号証)、日本学生自転車競技連盟は日本自転車競技連盟の加盟団体であるため、同大会には日本自転車競技連盟競技規則(乙第12号証)が適用され(同規則2条)、同規則99条は、同規則のアンチ・ドーピング関連規則が本規程に基づくことを明示していることが認められる。したがって、本規程1.1.1条により、本規程は、日本自転車競技連盟の会員及び参加者(競技大会に参加することによって国内競技連盟の活動に参加する者(本規程序論「適用範囲」))の権利及び義務の一部となる。以上により、本規程は本件に適用される。
     なお、本件での判断において適用されるのは、本件大会時点で施行されていた定め、すなわち、同年12月31日まで効力を持っていた本規程の定めである(その後の2009年1月1日に効力を生じた日本ドーピング防止規程20.1.2条による経過措置を参照のこと)。
  • 2 本スポーツ仲裁パネルが認定した事実
     本件証拠(乙第2号証、第3号証の1、2、第14号証、第15号証、第16号証)及び当事者の主張の趣旨(これらの事実については、当事者間で明示的な争いはない)によると、次の事実が認められる。
     本件大会当日のドーピング検査において、申立人から、サルブタモール825.1ng/ml±165.0ng/mlが検出された。
     申立人について、治療目的使用に係る除外措置(TUE)の申請手続又は略式申請手続はとられていない。
  • 3 禁止物質の該当性・本規程違反の成立
     本件大会当日のドーピング検査において競技者(申立人)から検出された物質サルブタモールは、2008年禁止表国際基準における「S3. ベータ2作用薬」であり、本規程2.1条に定める「禁止物質」に該当する。
     そして、上記2のとおり、申立人について、治療目的使用に係る除外措置(TUE)の申請手続も略式申請手続もとられていない。
     そうすると、申立人について、本規程2.1条の違反が認められる。
  • 4 申立人の主張について
     申立人は、上記第3・3のとおり主張する。
     申立人は、ドーピング検査手続の不備について、二つの点を主張する。第一に、申立人は、同人の属する日本学生自転車競技連盟はアンチ・ドーピングに関する研修会をどの競技者に対しても実施しておらず、申立人がドーピングに関する規定(医療目的で使用している治療薬に関する規定を含む。)を知らされることはなく、知らされていないことで責められるのは理不尽である、と主張する。
     本規程2.1条は、「競技者の生体から採取した検体に、禁止物質又はその代謝物若しくはマーカーが存在すること」がドーピング防止規則に対する違反を構成する、と定める。さらに、同2.1.1条は、「ドーピング防止規則に対する違反を証明するためには、競技者側に使用に関しての意図、過誤、過失又は使用を知っていたことがあったことが示される必要はない。」とする。したがって、申立人がドーピングに関する規則について了知していたかどうかは、本件においてドーピング防止規則に対する違反が成立するかどうかの判断に関係しない。本規程はWADA規程に基づくJADAの責務に沿って採択されたものであり(本規程序論)、本規程2条とほぼ同内容のWADA規程(本件競技会時に有効であったversion 3.0)2条に付された「解説」は、競技者側に使用に関しての意図、過誤、過失又は使用を知っていたことを必要としない「厳格責任strict liability」の重要性を強調している(WADA規程の「解説」は、WADA規程の理解および解釈の参考とされる。WADA規程24.2条)。
     本規程10.5.1条は、「競技者が[2.1条に基づく]違反に関して自己に過誤又は過失がないことを証明した場合には、その証明がなければ適用された資格停止期間は取り消される。」と定める。また、同10.5.2条は、「競技者が[2.1条に基づく]違反に関して自己に重大な過誤又は過失がないことを証明した場合には、当該証明がなければ適用された資格停止期間を短縮することができる。」と定める。これら資格停止期間の取消又は短縮は、本規程2.1条に定める厳格責任の「例外」(本規程10.5条)であることに留意する必要がある。本件において、申立人は、日本学生自転車競技連盟がアンチ・ドーピングに関する研修会を開催していなかったことを主張している。しかし、申立人が属する日本学生自転車競技連盟は、その憲章副則9条において、「本連盟に登記する競技者は、日本自転車競技連盟の登録競技者」であると定めており、かつ、日本自転車競技連盟は、同連盟競技規則23章にドーピング防止規則を定め、同99条は同連盟競技規則が本規程に基づくことを明記している。その上、日本自転車競技連盟ウェブサイトには、「アンチ・ドーピング」のページが設けられ、ドーピング防止に関する種々の規則に関する情報提供がされている。このような状況において、仮に競技団体が申立人に対し個別かつ直接にドーピング防止諸規則に関する説明を行っていないとしても、本規程10.5.1条又は10.5.2条にいう「(重大な)過誤又は過失」が申立人にないとはいえない。
     ドーピング検査手続の不備の第二として、申立人は、本件ドーピング検査は競技終了後数時間後にされており、その結果、申立人が競技終了後治療のためサルブタモールを摂取した後に検査がされることになったとし、競技終了後の治療に対して検査がされることはドーピング検査として不適切である、と主張する。
     自転車競技会におけるドーピング検査の手続は、日本自転車競技連盟競技規則99条10項に定められている。同項(12)は、「主催者およびDCOは、検体採取に出頭要請される競技者のリストを、[中略]優勝者がフィニッシュする前に掲示すること[原文ママ]確実にしなければならない。」とする(「DCO」とはDoping Control Officerの略であり、「ドーピング・コントロールに関わる検査員」(本規程付録1「定義」)である。)。
     本件大会開催要項(乙第20号証)によれば、申立人が参加した男子ロードレースの開始時刻は2008年8月31日午前10時である。被申立人は、優勝者のフィニッシュ時刻を直接示す証拠は提出していない。もっとも、本県大会男子ロードレース結果(乙第21号証)によれば、同レース優勝者のフィニッシュ時間は4時間30分19秒であるため、フィニッシュ時刻は同日14時30分頃と考えられる。また、被申立人は、検体採取に出頭要請される競技者のリストが掲示された時刻を厳密に特定する証拠を提出していないが、本件大会においてドーピング検査を担当したC DCO(乙第15号証)は、「最終13周目を走り切って規定時間内にフィニッシュすると思われる、トップ通過選手を含む一群が、12周目を通過してラストの13周目に入るあたりの時間で、[中略]検査対象選手のリストがアンチ・ドーピング検査室入口の壁面及び大会本部のリザルト掲示板に掲示されました」と陳述しており(乙第22号証)、申立人はこれに何ら反論していない。申立人は、「『レース失格直後に……リストを調べなければならない』[日本自転車競技連盟競技規則99条10項(11)]となっていますが、私が棄権直後(スタート後15分程度)には私は検査対象となっておりませんでした。」(2008年12月20日付「スポーツ仲裁パネル御中」)と主張するが、上記のとおり、出頭要請は「優勝者がフィニッシュする前」になされれば十分であると日本自転車競技連盟競技規則は定めている。したがって、本件ドーピング検査は不当に遅くなされたという申立人の主張は受け入れられない。
     もっとも、申立人のような棄権競技者については、日本自転車競技連盟競技規則99条10項(11)によれば「レース失格直後に……リストが掲示の所在を探し、行ってリストを調べなければならない」にもかかわらず、優勝者のフィニッシュが近づくまでリストが掲示されないため、同項(11)が定める「検体採取に出頭するよう要請されているか否かを自分で確認する責任」の内容が必ずしも明らかでないという問題がある。しかし、たとえ棄権競技者が出頭要請を自分で確認する義務の内容に不明確な点が残るとしても、本件ドーピング検査について申立人が検査対象競技者とされたことは、同項(16)の規定に沿う形でD DCO(乙第16号証)がシャペロン(検査対象者を検査の通達時から検体採取開始まで常時観察する、検査運営側の付添人。日本自転車競技連盟競技規則99条10項(17))として申立人に通知しており(乙第23号証)、いずれにせよ本件ドーピング検査は有効であると認められる。
     以上より、本件ドーピング検査手続に不備があるとの申立人の主張は受け入れられない。検査対象者リストの掲示時期に関する被申立人のその他の主張は、本件判断に関する限り、検討の必要がない。
     申立人は、加えて、原決定審理手続に問題があるとも主張する。すなわち、聴聞パネルから資料の請求があったため、求めに応じ、治療薬が医療目的であることを示す医師の診断書を複数回提出したにもかかわらず、それらが決定において全く考慮されていないことは、審理手続として適切でない、と主張する。しかし、原決定は「競技者及びその子供に対する2008年10月7日付の診断書各1通」及び「競技者につきサルタノール・インヘラーその他の薬が競技大会前から処方された旨が記された2008年10月21日付の診断書」に明示的に言及している。その上、同パネルは、申立人に対して10.3条に基づき1年間の資格停止を科すのが相当と判断している。これはすなわち、本件ドーピング検査により検出されたサルブタモールは経口薬「ベネトリン」によるのではなく吸入薬「サルタノール・インヘラー」によるとする申立人の主張を受け入れたことにほかならず(経口薬「ベネトリン」によるものであれば、本規程10.2条に基づき2年間の資格停止を科されることになる。)、聴聞パネルは、申立人が提出した診断書に基づいて申立人に有利な判断を下したと評価すべきである。したがって、これら診断書が「全く考慮されていない」とする申立人の主張は、これを採用することができない。
     以上より、申立人の主張は、そのいずれの点においても、これを採用することができない。
  • 5 本スポーツ仲裁パネルの権限
     本規程10.2条によると、本規程2.1条の1回目の違反については、2年間の資格停止が科されるところ、原決定は、前記第2・1、第3・1、第4・4のように本規程10.3条を適用して、申立人につき、決定の日から1年間の資格停止としたものである。
     そして、本件は、申立人からの不服申立てに基づく仲裁手続であり、かつ、2年間の資格停止を科すべきであるとの被申立人の主張は、前記第2・6、7のとおり002号事案において申立てが却下されたことにより、本件における判断の対象とならない。
     そのため、本仲裁パネルは、申立人の主張を越えて、原決定を修正する権限を持たない(なお、スポーツ仲裁裁判所(CAS)も、申立人の主張を越えて不服申立ての対象たる原決定を見直す権限は持たないと考えられている(W. v. UK Athletics, CAS 2003/A/455, Award of 21 August 2003, para. 13)。)。
     よって、本仲裁パネルは、原決定を結論として維持することとし、本件申立てを棄却する。
第5.結論
以上のことから、主文のとおり判断する。
仲裁地 東京都
2009年6月10日
スポーツ仲裁パネル
仲裁人 笠 井 正 俊
仲裁人 山 本 隆 司
仲裁人 濵本 正太郎
以上は、仲裁判断の謄本である。
一般財団法人日本スポーツ仲裁機構
代表理事(機構長) 道垣内正人
別紙「日本ドーピング防止規律パネル決定」
※申立人等、個人の氏名はアルファベットに置き換え、各当事者の住所については削除してあります。